2025年9月25日(火)20:02に新野先生が逝かれました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
私がこの仕事に就くきっかけとなった方です。お会いしたのは1995年の始めだったと思います。私が勤めていた専門学校が新しく芸能学園を立ち上げることとなり、その学園長に就任したのが新野先生でした。
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」のあっさりぬかる民だった私にとっては、まさかの事で驚きました。私はその芸能学園の教務として配属されてからいっしょに仕事することとなりました。
芸能学園の校名は105芸能学園(大阪市北区天満橋5丁目 ※天5『テンゴ』から105芸能学園となった)の元フィリップス大学日本校の校舎(現天満研修センター)にて第1期生を募集し、くしくも学校名と同じ105名が入学し、無事に開校しました。事業としては大成功でした。卒業生には現在全国区で活躍している漫才師や役者もいます。ただ105芸能学園は当時のオーナーの気まぐれで1年で閉鎖となりました。が、すでに第2期生も募集しており、第1期生の卒業生も含め、生徒全員を路頭に迷わすことはできないと新野先生が訴え。その尽力によりすべての生徒やスタッフ全員を新しい場所に移転し、芸能学園は継続されることになりました。その場所は心斎橋で元CBカレッジ跡(大阪ミュージカルスクールステージ21や心斎橋大学等の各種学校)で2期生の授業が始まりました。学科はドラマ科、お笑い科、ボーカル科、MC科の4科でした。当時スタッフのスリム化はありましたが、私は専門学校を辞めて21(ツーワン)芸能学園と名称を変更し、私は営業兼責任者としてそこで働くことなりました。
芸能学園は1年生で、1年間の勉強のあとは、学内オーディションを行い各事務所に所属してゆく形となります。卒業時には毎年卒業公演を行いました。お世話になったのは元ワッハホール(現よしもと漫才劇場)です。同じ時期には芸能学園の卒業生組織の「明日会(あしたかい)」が設立されました。プロダクション組織ではありませんが同窓会組織のようなものです。ただし、明日会では卒業生のためのイベントを企画・運営することとなります。新野先生にはイベントや公演で総指揮をとっていただきました。私はプロデューサーとして新野先生と演者との橋渡し役を受けました。
小さな公演では月1回ぐらいの頻度「明日会ライブ」(お笑いメインで歌もあり)を行いました。50名ぐらいの会場で行っていました。また、年に1回の芸能学園の卒業公演はワッハホールを中心として「明日会特別公演」として10回ほど開催しました。21芸能学園は2003年に生徒募集の難しさもあり閉鎖しました。が「明日会」は組織として残りました。この後、
「明日会特別公演」第一部は漫才・コント・ボーカルのバラエティショーで第二部ば演劇でした。しかも「のりうち」ですべて1日で終わらせるという公演でした。私はディレクター的な役割で、新野先生からは厳しく怒られることもありましたが、ここで舞台のことを多く勉強しました。新野先生から「井堀、舞台の事わかってきたやん」と誉めらたことは、私の誇りです。
その後「明日会特別公演」は規模や形を変えて開催し、私自身も芝居に出演するなどして第22回まで続きました。
2002年6月には岸和田市文化財団で50歳以上の演劇集団「銀春座(ぎんしゅんざ)」が新野先生の発案で結成されました。当時は年配の方の演劇集団というのは珍しく、入会者はたくさんいました。年に1回の岸和田市の波切ホールでの公演は好評を博しました。あらためて新野先生の先見の明はすごいなぁと思います。作・演出はShibaiya遊歩堂の清水 伸吾氏でした。「銀春座」は規模は小さくなりましたが現在も続いております。ちなみに「明日会特別公演」の演劇の作・演出は先の清水 伸吾氏です。(個人的に清水氏の作・演出好きです。)
時は同じくして、「明日会」主催で新野先生の発案で2001年から2011年までオール関西漫才新人ライブ「笑わんかい」が開催されました。関西の若手芸人(デビュー5年以内)が各事務所の垣根をとっぱらって出演する合同お笑いライブを元ワッハホールで毎年5月3日の祝日に開催しました。M-1グランプリが始まる1年前の出来事です。詳細は笑わんかいについてを参照してください。出演者には、現在全国区で冠番組を持っている芸人もたくさんいます。私はこの「笑わんかい」でプロデューサー的な立場でした。ここでも再度改めて新野先生の先見の明に驚かされました。
さて、現在私は、株式会社アートキャップの代表取締役をしておりますが会社設立のきっかけをいただいのは新野先生です。2003年に21芸能学園を閉校してから、私はジャパンモデルエージェンシーのアカデミーで2年間教務の仕事し、その後有限会社トガノでタレントのマネージャーを2年勤めました。その後、新野先生から「会社を作って独立しないか?」と言われたのが2008年でした。少し不安もありましたが、新野先生から勇気をいただき、今の会社を設立しました。それから17年。今も会社は続いております。決して順風満帆とはいかない事業ですが、新野先生と飲みいったときは、いつも「仕事うまくいっているか?」声をかけてくださり、その優しい言葉を聞いて心の中で「がんばろう」と思うことが何度あったことか?
芸能学園の卒業生やアートキャップの登録者とは現在進行形で多くの方々とつながっています。人は財産です。こんなにたくさんの方と交流を深めることができたのは新野先生のおかげだと胸を張って言えます。その心根を絶やすことなく私は、この仕事を力の限り続けてゆきます。新野先生と知り合ってちょうど30年の節目でした。2025年7月の「小バラ色の人生 新野新で語る大阪放送界史」の出版記念パーティ兼卒寿のパーティ兼生前葬に出席できて良かったです。新野先生には30年間公私(飲み会や旅行にも行きました)に渡りお世話になりました。本当にありがとうございました。
天国でミヤコ 蝶々さん、藤山 寛美さん、やしき たかじんさん、キダ・タローさん、藤本 義一さんらとお酒を飲んでいるのかぁ。たぶんごま焼酎の「紅乙女」やと思うけど。